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なぜに小宮久はコンゴ民主共和国に行ったのか?2 上梓に向けて


モブツ・セセ・セコ は、東西冷戦のさなか親米反共として西側先進国からの支援金を個人で取得していたとされる。

アフリカではアメリカ合衆国から最も援助を受けていた。

豊富な鉱山会社からの利益は、世界のタックスヘヴンへ向かい 世界銀行やIMFの資金もモブツ個人を豊かにした。


全ての利益は、貧困層へ向かう事なく対外債務の泥沼化に拍車をかけた。世界各国銀行口座のモブツの不正蓄財は総額およそ50億ドルといわれ、

豪華別荘、古城、豪邸を保有した。

北部国境付近のバドリテ高原に自家用飛行場つきの巨大な宮殿を建設し「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれ、モブツが失脚間際に籠城した。

自分を描いた金貨を作るが、予算が足りなくて作れなかった。

自分が気に入らないと 粛清・虐殺・強姦・略奪 となり、この歴史が、現代コンゴ人の性格・文化形成された原因と言われている。

モブツの個人資産は、ザイール共和国の対外債務に等しいと揶揄されている

TIME「アフリカの独裁者の典型」など兎に角 対外の評判が最悪でした。

ただ 普段の目は、とても怖かったですが、 我々 外国人には非常に気前よく 沢山ごちそうになりました。


そして小生ですが・・


イスラエルにて大量で凄い価値のダイヤモンド達にに囲まれて商売と管理をしていた時 小生 小宮久は、ずーと思っていたのです。

ダイヤモンドの選別、検品、見積もりでこんな細かい作業をしていて 色がちょっと違う、キズが、ちょっとある 形がちょっと悪い

何年も朝から晩までやらなければいけないのだろうか? 確かに儲かるというか、仕事としては、普通にありなんだと思うし

ここまでのスキルと言うかプロフェッショナルになれば今までの貧乏暮らしと苦労は、既にすっかり失念し

確実に相当に恵まれている人生を送っていた。ビジネスパートナーは、なんだか知らんが、ソビエト連邦崩壊とペレストロイカで

あっという間にNewsWeekの表紙になり、イスラエル1の大金持ちでデビアス アングロアメリカンのライバルと目されるようになっていた。

(彼の事は、後日書きます がーし っぽいww)


このビジネスパートナーが、小生 小宮久が、ぼけーと将来これで良いのかなあ? 意外とつまんないなあ テルアビブもアントワープもニューヨークも

飽きてきたなあ 日本かなあ やっぱりのタイミングで 久 これからコンゴ民主共和国が、良いぞ 鉱山だ!! おれは、ロシアとアンゴラで忙しい

しデビアス アングロアメリカン DTC には、日本人のお前なら気づかれないから行っとかないか?

23年前時効だよね。現在53歳の小生では、とても判断できない。

おーきた!!30歳元気いっぱい いつかジープ乗って銃持ってダイヤモンド鉱山開発したかったんだ!行ってみようって感じで情報収集を始めました。


まず 良い話は、一切聞かない

ザイール共和国が、コンゴ民主共和国になった革命らしい いや変わっていた名前を戻したそうだ でもほぼ革命だそうだ。

内戦で国内は、地獄絵図だと凄すぎる情報ばかり 80,90年代のイスラエルは、戦時中とも言える状況でガザにもいた若い小生は、精神的にも

肉体的にも内戦ぐらいでは、どうも思わなくなっているほどネジが外れていたと思う。

とは言え コンゴって・・」

コンゴ動乱、ルワンダ動乱 第一次 二次 コンゴ戦争など 戦争和解を繰り返しており、ほぼ40-50年内戦している。

ここでは、第二次コンゴ戦争に言及します。


第二次コンゴ戦争は、1998年8月から2003年7月にかけて、コンゴ民主共和国においてツチとフツの民族対立や資源獲得競争が原因で行なわれた戦争である。

アフリカ大戦とも呼ばれ、現在でも人によっては継続していると考えられている。


経緯

第一次コンゴ戦争、紛争鉱物。、紛争ダイヤモンド、アンゴラ内戦などが、深く関係している。

第一次コンゴ戦争 ローラン・カビラがAFDL 1996年にザイール東部において武装蜂起し1997年に首都キンシャサを制圧モブツ・セセ・セコ政権を終了させた。

AFDLは、主にツチ系住民であるバニャムレンゲで組織されており、ルワンダ(カガメ副大統領)とウガンダ(ムセベニ大統領)が、後援していた。


カビラは政権を奪取したあと、バニャムレンゲと距離を置き始め7月14日にAFDLのリーダーであるジェームス・カバレべを追放した。

その事から、全ては振出しに戻りバニャムレンゲは根拠地である東部へと移動 ルワンダがRCDを結成ウガンダがMLC結成した。


時系列

1998年8月20日 民族対立や資源獲得競争が原因で再度たった1年で第二次コンゴ戦争は、RCDが武装蜂起して勃発した。


5カ国軍事介入

南部アフリカ開発共同体(SADC)へのカビラの軍事介入要請に

主にジンバブエ、ナミビア、スーダン、チャド、アンゴラの軍隊が政府軍を支援した。

アンゴラも参戦した為、アンゴラの反政府組織UNITAが紛争ダイヤモンドを資金源にRCD側に介入してアンゴラ軍を攻撃した。


ルサカ停戦協定

1999年7月 ザンビアルサカにて政府及び5か国の間で停戦協定が調印されたが、国連部隊の無条件関与をカビラ大統領は、拒否し停戦協定は、

無駄に終わる。


カビラ大統領暗殺

2001年1月16日 ローラン・カビラ大統領が、護衛に暗殺される。1月26日 ジョゼフ・カビラ 大統領に就任。


アディスアベバ対話

2001年10月15日 エチオピアのアディスアベバで和平協定に向けての対話が開始された。RCD、MLC、RCDから分離したコンゴ民主連合解放運動RCD-ML

の反政府勢力3組織などが共同声明に調印


サンシティ 合意

2002年2月25日 ボツワナのクェット・マシーレ前大統領の声掛けで停戦調停が

南アフリカのサンシティで行われた 


2002年4月19日 サンシティ合意が締結された。後に決裂


プレトリア包括和平合意

2002年8月 ムベキ南アフリカ大統領の仲介から、南アフリカのプレトリアで、セネガルのムスタファ・ニアス前首相の

のもと停戦調停が再開 反政府勢力はRCDとMLCが参加した。

12月 プレトリア包括和平合意が成立


2003年6月 コンゴ民主共和国政府の設立が交戦国挙国一致で公式合意された。


2003年7月、合意に基づき暫定政府樹立


しかしながら、反対勢力は、納得せず正式に発足した暫定政権は国内を統治できず引き続き

民族対立とも相まって東部イトゥリ州南キヴ州北キヴ州は特に虐殺・略奪・強姦の多発する無法地帯であった。


2004年 死者数は第二次世界大戦以来最悪であり、栄養失調や病気で毎日約10,000人が死亡していた。

第二次コンゴ戦争で起きた虐殺・病・飢えで犠牲者は、累計で1000万人以上とされ、300万人以上が難民と化し、避難したが、組織的に虐殺された。



25の武装勢力と8つの周辺諸国が入り乱れるアフリカ史上最悪の戦争であり、鉱山資源の獲得競争等の原因で2022年現在も継続している。


今思うと行けないよ・・・これじゃ でもなんか行く努力をしたらとんとん拍子に行くことになりました。

まずは、イスラエルから日本に帰国して 大使館を探しました。いろんな人に聞いても外務省に聞いてもイマイチちゃんとした情報が当時(25年前)無かった

ので一週間ぐらい大使館探しにかかりました。原宿にあるのが、わかり大使にアポイント取るのに二週間かかりました。


JR原宿駅を背にして右側の大きい交差点神宮橋にある5-6階建ての凄く大きいビルの3階全フロアが、コンゴ民主共和国大使館でした。

大使と面談した時に大使公邸が渋谷にある まあ10LDK って自慢されて 

なんだかんだ言ってもザイール時代アフリカ一の金持ちと言われた国だけに凄く良い所に大使館、大使公邸あるな、流石だな こりゃダイヤモンドイケるぞって

何にも知らないで皮算用始めたのを覚えています。

大使に小生の思いと経歴 ビザ取得いろいろ打ち合わせしたのですが、どうも後ろ向き、日本人は、どうせ口だけで来ないとか、あなたも冷やかしでしょみたいな

何が日本との間にあったのだろう?? おー戦争、内戦が落ち着いて企業誘致を進めている中 ありがとう、ありがとうと感謝されると思ったのに・・


まあ とりあえず 行くだけ行ってみようとコンゴ民主共和国に行く準備を始めました。 大使館の受付のマリーさんにいろいろレク受けているうちに

マリーさんが、うちの旦那 紹介しようか? 会ってみない? と言われ生涯 コンゴ民主共和国、アフリカビジネスで25年共にする オパンゴさんと

会う事になりました。   つづく






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